あらためまして、こんにちは。
白石工務店の代表、白石充です。
この度は、弊社のホームページをご訪問いただきありがとうございます。
白石工務店のこと、想い、成り立ちを少しでも知っていただきたく、私自身のこれまでの歩みも含めて“やさしい住まいづくりへの想い”をお話させていただきます。
少々長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。
おじいちゃんの白石工務店
昭和四十三年十月。
私は、田園風景が広がる埼玉県幸手町で生まれました。
家では、祖父、父、父の従弟が大工として働いており、毎日木の香りに包まれ、木材を加工する音が子守歌がわりだったのでしょう。聞けば、祖父以前も、農業の傍ら近くの家をつくる大工だったようで、少なくとも百年以上建築に携わっているとのことでした。そんな環境で育ったからか、高校、大学は迷わず建築科へと進みました。
そして、大学三年生。そろそろ就職活動を始めなければならない時期。
家業は、大工から白石工務店になっていましたが、何の営業努力も、お世話になったお客様のアフターフォローもしておらず、ただお客様から頼まれた仕事をしているだけでした。
「大工として働くつもりはない」そう思って、実家には戻らず「大手の鹿島建設に行きたい」と考え、バイトもしていました。
しかし、実際にバイトをしてみると、社員で同じ大学を卒業した先輩の模型作りの手伝いばかり。ふと「この会社に入ったら、毎日誰かの指示の下、こんな風に仕事をするのかな。それって、本当に自分がやりたい仕事なのかな」と思うようになりました。
そんな時、知人から「小さいけれど、外国人の設計事務所で働いてみないか」と誘われました。仕事内容は、日本の企業が海外に進出する際の設計申請業務などを代行するというものでした。
「いろいろな国のことが分かって面白そう。」しかも、英語が話せない私でも、やる気さえあれば構わないと言ってくださった社長はじめ、スタッフの人柄に惹かれて入社させていただくことになりました。
平成二年。社会人としての人生がスタートしました。
しかし、実際には英語が話せなければ、一人では何の仕事もできません。
雑用をしながら、二~三時間ほど英語の勉強をするという学生の時と変わらないような毎日でしたが、いろいろなことを吸収できることに楽しさと喜びを感じていました。
本当にやりたいことは?
就職して二年目のある日、社長から「今後のため、留学して外国の建築法令などを学んでほしい」と言われました。この会社で独り立ちして仕事をするためには、きちんと学んだ方が良いということからの提案でした。しかも、会社に在籍したままで良いというのです。
「自分のために、そこまでしてくれるのか」とその期待を嬉しく、そしてありがたく感じました。しかし、その一方で、自分はその期待に応えられるのだろうか…という思いが湧き上がってきました。その理由は「実家の工務店」でした。
祖父や両親としては、「工務店を継いでほしい」という思いがあったと思います。
少なくとも、家業が途絶えてしまうことは、私にとっても本意ではありませんでした。そこで、専門学校に通っていた弟に、工務店を継ぐ気があるのか尋ねると、「継ぐ気はない」との返事。
「どうしよう…」なお一層、自分の心の中が揺らぎ始めるのが分かりました。
そんな時「面白いから読んでみたら」と、母から一冊の本を手渡されましたその本は、頑張っている町の工務店の取り組みを紹介するものでした。その本を読んでいくうちに、「お施主様ご家族と一緒に家づくりをするのって楽しそう」と思うようになりました。
そして、「こんな中途半端な気持ちでは、自分に期待してくれている社長に申し訳ない」と思い、今の気持ちをそのまま話すことに決めました。
話を聞いた社長は、「迷いがあるのなら、一度実家の仕事をやってみると良い。そして、本当に自分のやりたい仕事が工務店の仕事ならそのまま続ければ良いし、この会社に戻りたいと思ったなら、いつでも受け入れるから」と言ってくださいました。
「中途半端が一番悪い」そう思って、社長の提案をありがたく受けることにし、私は白石工務店に戻ることにしました。
祖父と見ていた『暴れん坊将軍』町火消し「め組」の親方
白石工務店で働くことを決めた私には、ひとつの想いがありました。
それは、「地元の方に必要とされる工務店にしたい」ということでした。
子どもの頃、祖父と一緒に見ていた時代劇の『暴れん坊将軍』そこに出てくるのが北島三郎さん演じる火消しの親方。町の人々は、困ったことがあると「とりあえず、親方に相談してみな」と親方を尋ねていました。子ども心にも、そんな親方の姿がかっこ良く見えていたのでしょう。
そんな「困った時に、一番に相談しに行こう」と思ってもらえるような存在になりたいと思ったのです。
実家で働くことになった私は、大工の見習いとして現場で働くと共に、一級建築士の資格取得のための勉強を始めました。その一方で、自分の想いを実現させる第一歩として、現場を引退していた祖父と共に、今までお世話になったお宅を一軒一軒訪問させていただきました。
「棟梁が孫を連れて顔を見せてくれた」と喜んでいただいたりもしましたが、季節の挨拶状すら出していない現状でしたので、訪問した際に、あらためてお客様の家族構成やお誕生日をお聞きし、バースデイカードを送り、まずは、自社で建築させていただいたお施主様から、いつでも声を掛けていただけるような関係づくりを始めました。
さらに、会社から車で五分圏内の住宅団地に情報誌『住まいの瓦版』をお届けし始め、地元の皆様からも声を掛けていただけるよう、小さな修繕から対応してきました。
今の会社も、まだまだそんな頼れる存在にはなれていませんが、その想いは今も変わらず持ち続け、今では地元の皆様二千軒を超える方の住まいづくりのお手伝いをさせていただいております。
1㎝の段差も許せない
二〇〇四年、以前手すり取付けや段差解消などのリフォームでお世話になったことのあるK様から「夫婦で暮らす離れをつくりたい」とのご依頼がありました。リフォームの時は、店長が担当だったのですが、新築ということで、今回は私が担当させていただくことになりました。
K様は、二度の脳出血の後遺症で、四肢麻痺と言語障害があり、車いすで生活をされています。いろいろつらい思いや不便に感じることも多いとは思いますが、ご夫妻とも、とても明るく前向きに生活を楽しんでいらっしゃいます。
バリアフリーの住まいは、リフォームでは何度もさせていただいた経験がありますが、新築は初めてでした。不安もありましたが、お二人のことを知れば知るほど、「お二人の想いを実現させるお手伝いをさせていただきたい」と思うようになりました。
打ち合わせは、今まで施工させていただいたどのお宅よりも多く行いました。
そんな中、「リフォームなら、少しくらいの段差ができるのは仕方がないけれど、新築なのだから、全く段差のない家にしてほしい」と、ご主人から要望されました。もちろん外から室内までです。
段差をなくすといっても、ただ平らにするだけでは駄目で、 外からのほこりや雨水が玄関に入り込まないなど、 工夫すべき点がたくさんありました。
「今までの知識や経験だけでは足りない」そう思い、福祉住環境に関する本を買い、一から勉強しなおしました。また、ご本人のK様からも、どのようにしたら過ごしやすいか、動きやすいかなど、たくさんのことを教えてもらいながらの家づくりが始まりました。
お二人の意見を取り入れ、最終的にご提案したプランは、一日中光が射し込む羽を広げたようなくの字型の家で、どこにいてもそれぞれの存在を何となく感じることのできる間取りにしました。
また、読書好きのご主人が日中過ごすための書斎からは、畑仕事をする奥様の姿が眺められるようにしました。
いよいよ上棟。日ごとにカタチになってくる毎日は、とてもうれしいものです。
しかし、工事中の家は段差ばかり。
現場での打ち合わせは、奥様としかできません。実際に確認していただけないことは、不安でもありました。
そして、待ちに待った完成。新しい家で過ごすK様から、「今まで宅配便が来ても受け取ることができなかった。自分一人で外に出られてうれしい」と言っていただき、奥様の知らぬ間に一人で出かけてしまったと笑うお二人の様子を、とてもうれしく思うと同時に、この家づくりに携わらせていただいて、 本当に良かったと心から感謝しました。
もっと学びたい
ある時、神奈川県の建設会社の社長から、「高齢・障がいなどで身体が不自由な方の家づくりに特化している会社があり、そこで勉強会をしているから参加してみないか」と誘われました。
K様以降、数件のバリアフリー工事をさせていただく中で、もっと専門的に学びたいと思ってはいましたが、「これからは、介護の分野が儲かる」そんな話をする勉強会なら断ろうと思っていました。
なぜなら、数は少ないとはいえ、今まで携わってきた福祉住環境の住まいづくりで、「バリアフリーは、そんなに簡単なものではない」と感じていたからです。
武藤会長との出会い
勉強会への参加の前に、代表をされている武藤会長にお目にかかる機会がありました。
武藤会長は、「例えば、交通事故で身体が不自由になってしまった方の家づくりをお手伝いすることになるとする。その人は、保険金を使って家を直すことになる訳だよね。でも、そのお金って、自分の身体が思うように動かなくなってしまった代償として受け取ったお金だよね。だから、そのお金を使って家を建てる私たちには、失敗は許されない。」
「本当のバリアフリーをわかっていない業者に家づくりを任せて、日々の暮らしに不便を感じながら暮らす人やご家族をなくすためにも、しっかり学んだ工務店が、全国の都道府県ごとに最低一社は必要だと思っている。もしやる気があるなら来てみないか」と言われました。
この人は本気なのだな。
目先の利益を求めるのではなく、「身体が不自由な方の役に立ちたい」心からそう思っているのだと思いました。そして、初めてバリアフリーの家を新築した時、うれしそうに話してくれたK様の笑顔を思い出しました。「学びたい…。」私も、心からそう思いました。
妻からの反対
勉強会は、一社二名までの参加が許されていました。
誰を一緒に連れて行くか…。順当に考えれば、お客様との打ち合わせから管理までの業務を担当している店長でした。
しかし…。今まで携わらせていただいたご家族。
そこでは、女性が大きな役割を担っていることが多くありました。同じ女性という立場で、お悩みを伺ったり、雑談をしたり、相談の内容によっては、男性には話しにくいこともあるかもしれない。考え抜いた結果、妻を連れて行くことにしました。
「もっと福祉住環境を学ぶため、一緒に勉強会に参加してくれないか」その問いかけに対し、快くついて来てくれるものと思っていました。しかし、妻は猛反対でした。
「今までだって、一棟一棟、そのご家族のことを考え、真剣に家づくりをやってきたじゃない。K様の時だって、そうだったでしょ。今までの家づくりに対する姿勢が中途半端なものだったならともかく、そうじゃないのだから、障がいを持っている方の家づくりだって、同じ思いで真摯に 取り組めば良いことでしょ。」そう言って頑として首を縦に振りません。
すれ違う私の想いと妻の想い。毎日毎日話し合い、けんかをしましたが、お互い主張を譲りませんでした。最後には、泣きながら行きたくないと訴える妻。実は、その涙には理由がありました。
本当の理由
勉強会の誘いを受けた時期。妻の父は、脊柱管狭窄症を患っていました。
居間からトイレに歩くのもつらい義父。
ブロック注射など、通院での治療を受けていましたが、容体が改善しなければ、手術をするしかないと言われていたのです。
「何もこんな時期に研修なんて…」その思いが、頑なに反対した本当の理由だったのです。その気持ちは分かっているつもりでした。でも…。
「どうしても、今学ばなければいけない」そんな私の想いに結局は妻が折れ、「研修の日が父の手術の頃と重なったら、その時だけは行かない」ことを条件に妻との参加が決まりました。
義父の病気
参加して二か月目の勉強会は、義父の手術の翌日になってしまいました。
八時間にも及ぶ手術でしたが、妻は休むことなく勉強会に参加してくれました。
義父は、腰から足までをつないだコルセットでガチガチに固められ、はずれるまでには数か月かかるとのことでした。腰を全く曲げられないようにしているので、寝ているか、立っているかの姿勢しかとれません。座ることができないのですから、もちろんトイレにも行けません。
「おむつをするしかない。」すると義父は、食事や飲み物を控えるようになってしまいました。
トイレが自立できないことは、看護師さんに迷惑を掛けると思った以上に、義父のプライドを傷つけたのだと思います。
そんな義父に、「福祉住環境の勉強をしていること」「ベッド上で排泄することができる福祉用具があること」を伝えると、翌日からきちんと食事をとるようになりました。
そして、看護師さんたちにも「家に帰っても、娘たちがなんとでもしてくれるから大丈夫」と笑顔で話していました。
義父は、一か月間で病院を退院、半年ほどの自宅静養でコルセットもはずれ、仕事にも復帰できるまでになりましたが、あらためて福祉住環境づくりの大切さを、当事者として実感した出来事でした。
自宅に帰る喜び
平成二十四年。埼玉県所沢市にある国立リハビリテーション病院に、弟さんが入院中の方から連絡が入りました。 「そろそろ退院に向けて準備を始めたい。今後は車いすでの生活となるので、家をリフォームしたいが入院中でも対応は可能か」というものでした。
もちろんお断りする理由はありません。
しかし、退院までの期間が短かったので、十分な打ち合わせができるか不安でしたが、近く一時退院をされるとのことでしたので、その際にお会いさせていただくことにしました。
初めてお会いしたN様は、お住まいをどのようにしたいかを、きちんと考えられていらっしゃいましたので、方向性はすぐに決まりました。これなら退院までの期間が短くても大丈夫だと思い、最終的にお引き受けすることにしました。
しかし、実際にその方がどのような動作が可能かを確認させていただかなければ、手すり一本の取り付けもできません。そこで、病院側にお願いしていただき、病院で使われているトイレや手すりなど、使いやすい部分、使いにくい部分なども教えていたきながら、実際の動作を確認させていただきました。その他は、メールでのやりとりとなりましたので、実際にお会いしたのは2回しかありませんでした。
退院されて数日後、不具合などがないか確認に行かせていただいた時のこと。「入院中に知り合いになった人が、同じ頃退院したけれど、リフォームしたトイレが使えず、病院に再入院になってしまった。自分は家に帰って生活することができて、本当に良かったと思っている」と話していただきました。その言葉を聞いた時に、とてもうれしく感じると同時に、N様の知り合いの方のような思いをされる方を一人でも減らせるようにしたいという使命感がこみ上げてきました。
この家にいると身体が楽だ
平成18年に新築させていただいたM様。
当時のお住まいが、築三十年以上を過ぎ老朽化したことが建替えのきっかけでした。
弊社の家を見学していただいたのは、冬の寒い時期でしたが、玄関に入った途端に「わぁ~、暖か~い」と実感。リビングにいてもキッチンに立っていても、どこでも同じように暖かいことには驚かれたそうです。
M様の家が完成して仮住まいから引っ越す時には、大阪に住んでいらっしゃるお母さまが手伝いに来てくださっていたそうです。お母さまは少し心臓が悪いそうなのですが、一週間ほど滞在されるうちに「この家にいると身体がとても楽だ」と話されたそうです。
寒い家というのは、思いのほか心臓に負担がかかります。「家中どこにいても温かいことが影響しているのでしょうね。」とご主人が話された通り、室内の温度差がないことで、体に負担がかからず、より快適に過ごしていただけたのだと思います。
我が家が一番!
バリアフリーには、“目に見えるもの”と“見えないもの”があると考えています。
一般的に言う「バリアフリー」は、「段差をなくす」「手すりをつける」など“目に見えるもの”を言うことが多いですが、実は“見えないバリアフリー”もとても重要です。
例えば温度差。
障がいや病気などで、体温調節がしにくい方はもちろん、年をとると温度に対する感覚が鈍くなると言われていますので、高齢の方にとっても、温度差がないことはとても大切なことです。
事実、温かいリビングから寒い風呂場へ移動しての入浴など、急激な温度変化で血圧が上下に大きく変動するなどによって起こる健康被害(専門用語でヒートショックと言います)が原因で亡くなる人の数は、交通事故よりも多いとも言われています。
また、介助する方が、さりげなく見守ることができる間取りや、楽な姿勢で介助できる間取りなど、介助する方に負担がかからないことも、安全で楽に快適に過ごせるという意味で、見えないバリアフリーのひとつと言えるのかもしれません。
結局「バリアフリー住宅」とは、身体が不自由な方、ご高齢の方やそのご家族だけでなく、子どもから大人まで、誰にとっても住まいやすい家なのだと思います。ですから私たちは「一般の住宅」「バリアフリー住宅」といった区別はしていません。(便宜上、そう表現することはありますが…)
とは言え、身体が不自由な方の家づくりは、今では白石工務店の大きな柱のひとつになっています。社員に「白石工務店が他社に負けないものと言えば?」と問うと、みんなが口を揃えて「バリアフリー住宅!」と言うようになりました。
お引受け件数はまだ少ないですが、社員も自分なりに勉強に取り組み始めています。その根底には、社員一人ひとりの中に、「そこで暮らす方にとって、どんな家であることが一番大切か」をしっかりと考えているからだと思います。
私の夢
私には夢があります。
私が工務店に戻って来た時の祖父のように、お世話になったお客様の家をぷらっと訪ねると、まるで親戚が来たかのように迎え入れてくださり、お茶を飲みながらたわいもない話をする。
そこでは、建築中はまだ小さかったお子さんが大学に進学した、社会人になった、ご結婚されて子どもが生まれたなど報告してくださる。自分が手がけたお客様の家で、そんな時間を楽しみながら、毎日仕事ができたらどんなに幸せだろう、と。
その夢のために、今まで培ってきた経験や技術をより高めるための努力をこれからも続けてまいります。そして、建てた後もお客様とのつながりを大切にしていきたいと思っています。
幸いにも、私が工務店を継ぐか継がないか迷った時、「継ぐ気はない」ときっぱりと言っていた弟(店長・串田)が、今では私の右腕となり、それに続く社員にも恵まれています。
これからも、社員一丸となって頑張ってまいります。
そう、何かあったら町一番に相談できる頼れる存在の工務店を目指して…。
- 完 -
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【名前】 白石 充(しらいし たかし)
【所属・役職】 社長
【ニックネーム】 たーくん
【生年月日】 1968年10月11日(てんびん座)
【血液型】 A型
【出身】 埼玉県幸手市
【資格・特技】 一級建築士 住環境コーディネーター 住宅ローンアドバイザー 福祉用具専門相談員 エクステリアプランナー
【趣味・お休みの日の過ごし方】
何か用事があって出掛けることが休みですね。
(どうしても日曜日などにお打ち合わせになるのであまり休みはないかな?)
特技はスキーです。スキー連盟にも入っていてSAJ1級です。
もともと指導員を取る予定で、昔は年間50~60日くらいやってました。中学の頃はサッカー、高校は野球ですね。今も草野球チームには入ってます。試合の日に予定が合わないので幽霊部員ですが…忘年会には予定を合わせて行きます。(笑)